近況 / 言葉 / 映画
- shosuke oota
- 7月1日
- 読了時間: 2分
私が最近思う事と言えば、言葉が好きであるという事だ。自己認識に輪郭を生み出し、他者と共有することができる。何より素晴らしいのはそこに時間の弊害を生まないことだ。過去から未来まで共通の輪郭を形作ることができる。しかし、これは言葉の仕組みに過ぎない。
この仕組みを利用することで起こる副作用に着目しよう。概念としてのみ存在していた事象を言葉によって形作るとき、単語の取捨選択、組み合わせによって伝え手の意図が混在する。その意図は伝える瞬間、受け取る瞬間、伝えてから受け取るまでの経過時間などによって姿を変える。すなわち、言葉とは単なる記号であると同時に、受け取った私たちは意図、時間、文化、哲学、感情、ありとあらゆる事象を1つの記号から経験することができるのだ。とても素晴らしい。好きである。そう考えると、言葉が万国共通で無い部分も愛くるしく思える。
さて、だいぶ脱線してしまったがこの文章における結論から話そう。映画とは言葉なのだ。当然、極論である。
しかし、考えてみてほしい。誰も輪郭を知らなかった風景、事象を映画は形作ることができる。映画をみた私たちは場所、時間に囚われず経験することができる。ゆえに、映画とは近年になり出現した言葉の新しい形と言える。悔しいが、新参者である映画という言葉は万国共通で伝わる優れものでもある。
ここで私が疑問視している点がある。言葉は日常に多く存在し受け取り手が自分事として咀嚼することに躊躇いが無いのに対し、映画は受けた経験を自分事として咀嚼することに躊躇いを感じる人が多いということだ。これには強く異を唱えていきたい。
言葉とは、生まれてから死ぬまで認識を共有できず、自分と他者の境界位置も曖昧で、しかしはっきりと壁がある、人間の、恐ろしく孤独な世界を救った救世主である。言葉があるから、感情を手にして、世界を認識することができた。
映画という新しい手法においても、言葉と同じく自分事として捉え、伝えあっていくことで、どうしようもなく孤独な私達は、また1つ、新しい世界を経験することができるのではないだろうか。
だから、私は映画を撮る。
言葉にする。
何かを救うほどの力は無いかもしれないが、世界の捉え方を少しでも変えていくことに尽力したい。
太田祥介

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